「暇空茜さんが政治家としてふさわしくないということ、また僕たちには感謝の気持ちが足りないということ」おさんぽ日記 2024年6月22日/「”Himasoraakane” is not worthy of being a politician. We lack gratitude for peace and for those who supply it.」Osanpo-Nikki June 22, 2024

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にゃーん

(人間・日本語訳

東京都知事選に暇空茜さんが立候補した。
そして彼はSNSで盛んに自分への投票を呼び掛けている。
「お願いします」「お願いします」と必死に頭を下げるような投稿をしている。
いつも強気で誰にも媚びない、平気ですぐに人をブロックし、自分の気に入らない人間と絡んでいることだけを理由にブロックして、ブロックしてほしいならこうしろああしろと、あんな態度の暇空茜さんからは考えられない行動だ。

これを「いつも強気で誰にも媚びない彼が今回は本当に都知事になりたくてプライドを捨てて頭を下げるようにフォロワーにお願いしている。彼はすごい。今回は彼は本気だ、彼に賭けてみよう。」と取る彼の取り巻きのような人たちがいる。

僕はそうは思わない。逆だ。
「いつも散々に人々の心を掴む努力をしてこずに、やっとチャンスが来たら飛びついて頭を下げる。それは本気でもなんでもなく、ただ勝手なだけだ。そして、そんなひとつのチャンスで下げれる頭に、プライドくそもない。それはプライドではなく、ただの去勢であり、横暴であっただけだ。」

と思う。
最近、安倍晋三という政治家についての本を読んでいる。

彼は、政治下の中でも異例の出世を遂げた。
政治に疎い人にわかりやすく言うと、戦後最年少での52歳での総理大臣。
これも、もちろんすごい。
しかし、僕は、当選三期目での幹事長就任、これが異常だと思った。
僕は、その場面を読んで震えた。

しかし、これは軌跡でも偶然でもない。彼の家柄のおかげでもない。(マイナスには働かなかっただろうが。)
彼は、選挙に出る際に、地元、山口での個別訪問を欠かさず(ある村はすべての家を戸別訪問したそうだ。)また、当選してからも、派閥を越えて、また、応援にいってもどうせ当選しないような議員のところまで、お金がないながらも、自分の体は使えるというところで、かけずりまわって応援演説に行って飛んだ。(当時の彼は、北朝鮮問題で国民の人気を得ていたから、その安倍晋三が応援に来るということは、候補者にとって、とても心強く、ありがたいものであった。)
このように、安倍晋三の異例のスピードでの出世は、日々のたゆまぬ積み重ねの努力の末に、成し遂げられたものだ。

そういう意味で、安倍晋三は、天才だと思う。
僕は天才が好きだ。
イーロン・マスクが好きだ。
村上春樹が好きだ。
そして安倍晋三も好きだ。

僕は安倍晋三が好きだが、世間から見ると、村上春樹は、その反対側だろう。
だが、僕は村上春樹が相当に好きだ。
出ている本は、すべて読んだ。
本人の意向で絶版になっている本も読んだ。
隣の県の図書館に行かないと読めない、彼が封印したある小説があるのだが、それも隣の県の図書館まで行って、読んだ。(最新作の『街とその不確かな壁』の原型となっている作品だ。表に出ているものでは『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の「夢の中」の章で読める。しかし、この部分にあたる作品を、実は彼は最初期に書いているのだ。僕は彼のストーカーだから、読んだ。)
僕は村上春樹のストーカーだから、彼について書かれている本も沢山読んだ。
だいたいはくだらないものだった。
しかし、ある本のこの文章は、村上春樹の書く文章と同じく、美しく、そして、天才について書かれた文章として一級であるから、ここに引用する。

それは、一見、アメリカ文学の影響を色濃く受け、飄々と書いているように見える村上春樹の作品が、実は、彼のおいたちから、そして作品の丁寧な観察から「日本的なもの」の影響を色濃く受け、また、果てなき努力のすえになされたものを示す、非常に美しい文章だ。

しかし重ねてその「創造」は、一つの「個性」たらんとする野心の聾したものではなかつた。「生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるした」、「死のかたまり(この部分には原文では点々がついて強調されている。少し、古い本なのだ。)みたいなもの」を見ぬちに保ち、自らに為し得ることだけを当たり前に為しながら、誰のものでもない「宿命」に至りついた者を、顧みて人は天才と呼び、偉大な個性と呼ぶだけのことなのである。

僕はこの文章を、一人の偉大な小説家だけでなく、偉大な政治家にも、当てはめて読むことができる。

そう考えると、暇空茜さんは選挙を舐めすぎているとしか思えない。
出ること自体が目的で、話題を作りたい、というのではなく、本気で当選したいなら(SNSでの彼の投稿を見る限り、本気で当選したいように見える)あまりにも甘すぎると、僕は思う。
また、個人的にも、彼はリスクをいとわない面白い存在であるが、敵対する相手への最低限の思いやりや、対立する意見に対して「排除」を持ってのぞむ姿勢、そして何より、根拠のないものに対して、自分の都合のよいストーリーで叩く甘さから、都知事を任せたくないと思う。
(彼の叩いているうちのいくつかは、根拠が間違っていたり、彼の批判とは正反対で、ちゃんと社会のために尽くしている団体もあるのだ。)

ある地方議員と話している時に、彼は言った。
「俺は国政議員が嫌いなんだ。毛嫌いしている、存在自体が嫌いなんだ。」
僕は、それを聞いて、少し、落胆してしまった。

地方政治で、予算の無駄を削ったり、行政を改善したり、それはもちろん結構なことだと思う。

しかし、その前提には、日本が戦争に巻き込まれていないという、大きな大きな前提がある。
「平和」というものは、水道の水やどこにいってもきちんと整備されている道路と同じように、当たり前のように見えて、実は当たり前のものではないのだ。

それは誰かが、あるいは誰かたちが、自分の人生を犠牲にして、そしてまた、世間からの賞賛を得られぬどころか批判ばかり来ることを覚悟して(しかし、きっと、何百年後かに評価されるであろう、未来の人類への信頼は、あったかと思う)大きな責任感の上に、成り立っているものだ。

「平和」は当たり前のものではない。
もし、日本が侵されたら。

君の彼女のAちゃんは、X国の人間に薬物を飲まされておかしくされて強制的に快楽を得る状態にされた上で、しかし、心では屈辱を感じた上で、輪姦された上で、最後は、性器をガスバーナーで燃やして遊ばれて、目をほじくられ、指を一本ずつ切り落とされて、殺される。

君のお父さんは、自分の妻を目の前でそのようにもてあそばされたあとに、全身を針で刺されて、四肢をもがれ、血の中で呻きながら、殺される。

君のお母さんは、自死しないように猿轡をはめられて、他国の人間に一日朝から晩まで、同じく様々な薬物を注入されおもちゃのように遊ばれながら性的にもてあそばれ、その中で妊娠した子供を産まされる。そして、目の前で、その子供を、踏みつぶされて殺される。それを、体が壊れるまで繰り返されえる。

戦争とは、そのようなことが起り得るものであると、僕は思っている。
また、それに近いことを僕は、若いながらも、聞いたり、読んだり、そして映像で観たりしている。

これは何も空想のお話じゃない。
みんな、危機感が足りないんじゃないか。
「戦争」を経験したことのない僕だが、「戦争」を経験していないことがどれほど幸せなことか、そして、「戦争」とは、僕たちのすぐ近くにあって、少しでも間違えれば、それは起り得るものだと知っている。

僕は、政治になるつもりもない。
そもそも、なれないし、なる資質もないし、なるべき人格でもない。
でも、感謝はしている。
僕には、元々、自衛隊で働いていた部下がいる。
自衛隊で働くということがいかに過酷か、彼から聞いた範囲ではあるが、知っているつもりだ。

僕たちは政治家でも、自衛隊でも、ない。
では、せめて彼らに対する感謝の心は忘れず、生きるべきではないのだろうか。



2024年6月22日 20分くらい(時間を図るのを忘れた)

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