2024年5月25日

にゃーん

(人間語・日本語訳

昨日、会った女の子に土下座をしたら、15万円を貸してもらえた。

その結果、昨日時点で今月中に用意しなければならない残り1万円はクリアーされ、また、私がお金で困るのは、私の人生計画では、これで最後であるので、私の人生のおかるお金のないステージは、無事にクリアーされた。

数か月前から増加していたであろう、私の資金難を描写していたおさんぽ日記は、同情を求める旨の投稿ではなかった旨を、ここに表明したい。また、私の人生計画によれば、私は、天才であると同時に、反省ができる人間であるがゆえ、今回、人生で初めてお金に困り、そして、それゆえ初めて「お金」というものに対する認識を改めることができ、そして、その結果として、お金を稼ぐことを必死で考え、これまでお金を稼ぐことを考えたことのない天才が、初めてお金を産むことを考えた結果、無数のアイデアが浮かんだ。私はそれらのアイデアを、実現可能性と、実現時期と、また、お金だけではない、別の力も得れるという要素などを含めて、総合的に比較検討し、そのいくつかを選んで、実行した。

そのいくつかは、実現がしかかっているため、今後、私がお金に困ることはないであろうことを、ここに記しておきたい。
それらのアイデアは、私という天才の産み出した結果、帯びてしまったあまりの天才性により、天才性に必然的に付随する理解不可能性を帯びているため、余人には、「夢物語だね」などと笑われることが多かったが、私は、他人にとっては夢にしか見えないものを現実にすることのできる特殊な能力を持っている、現代史においても類を見ない人物であるため、DreamをTrueにComeしてしまうのだ。

また、私は、そのような嘲笑的な反応を、力の源泉に変換することができるという、非常に効率的な心情構造の持ち主であるがゆえ、そのような嘲笑的な言葉に対しては、むしろ、感謝の念を感じている。

昨日も紹介した、guca owlという人物の『 DIFFICULT』という歌における、以下のフレーズが、まさに私のこの心情を端的に表している。

俺の夢を誰か笑え

そうすれば俺はまだ走れる

簡単なことなんてやんねえ

君が裸でも俺なら抱かねえ

ちなみに、昨日の日記では書き忘れたが、この曲は、ラブホテルに同意の上で入室し、性交に同意した上で、その前奏として、お互いの好きな曲を流しあうDJをした、非常に綺麗な女性から、教えてもらった。なお、その女性は、あまりにもイカした曲をDJしたため、前奏があまりに長くに及び、肝心の本番である演奏曲である、「性交」の時間が、気づいたら、30分しかないという状況になってしまった。

女性は、性交の同意に至り、お互いが裸になり、また、あとは私が私の体のある部位を彼女の体のある部位に挿入する直前まで至ったが、私は、これまでの人生で、多くの性交を得たがゆえに、現在、性交に対して特殊な態度を取っている私は、女性がむしろ挿入を求めてきたのを断り、唇を噛み締めながら必死に我慢をし、本当は今すぐにでも挿入したいが、あなたのあまりの美しさゆえに、また日を改めて、水族館でデートでもして、食事でもして、しっかりと時間の余裕を持って、性交を致したいという旨を申し出た。

女性は、その提案に対して非常な不満を抱いていたが、私の、魅力的な女性だからこそ、きちんと性交したいのだという必死の訴えかけに何とか理解をして頂き、そして、次回またデートしてくれることを約束し、その日は解散した。

なお、その数日後に、その女性には彼氏ができ、結果として、性交に至らず終わっていることを、ここに付言させて頂く。

私は、彼女が教えてくれた『 DIFFICULT』の歌詞の中の、「君が裸でも俺なら抱かねえ」という、まさにその言葉通りの行動をしたわけであるが、卑しい心根の私の中には、あの時に挿入しなかったことの、後悔の念が満ち満ちている。原宿を歩いていると芸能事務所から必ずスカウトされるような、本当に美しい女性だったのだ。その女性を見れば、私がこのようなとても大きな後悔の念を抱いてしまうことを、きっとご理解頂けると思う。
なお、彼女には、お金に困っているからと、20万円を貸与したが、現時点で1円の返済もない。しかし、彼女に教えてもらったguca owlの『 DIFFICULT』という曲の評価額は、20万円を優に超える金額であるため、私は彼女にお金を貸与したことに対しては、後悔はしていない。挿入だけだ、後悔は。

私は、お金というものについて考え尽くした結果、電車に乗るたびに、5円をわざと音を立てて落とし、それを拾ってくれる人間がいるかを観察する遊びをするようになってしまった。意外と、拾ってくれる親切な人が多く、私は、宮台の「社会はクソだ」という主張に少し疑問を抱き始めている。全国各地で、電車の中で5円玉を音を立てて落とし、拾ってくれた人間の割合から、その地域の人間の善意性を定量的に評価し、その地域の特殊性と関連して論じれば、社会学の論文が一本書ける気がする。今度、宮台に提案してみよう。

私は、自分の美学として、自分の力を隠すことを規律として生きているため、そのような、私の天才性、情熱性、行動力を理解できぬ余人が、それら私が同時に合わせ持っていることを、やっと理解した時の、私に対する反応を、楽しみとして生きている。この性癖は、心理学で「試し行為」と言われる要素を多分に含んでいると考えているので、私は、この点において、自身の精神の異常性を自覚している。もちろん、治す気はない。

なお、私は、天才であり、また、同時に仁義の持ち合わせた、数少ない人間であるがゆえ、おそらくはその天才性、並びに仁義を見込んだ人間から、担保なしで、4桁近いお金を借りたり、人からお金を奪うプロであるキャバ嬢という職業の売れっ子の方に、会った初日に意気投合し、借金を申し出て、3桁を即で振り込んでもらったり(しかし、私が貸したことは絶対に秘密にしてほしいという条件が付与された。おそらく、客や、その他、様々な人間関係を考慮した結果の条件であったのだろう)また、知り合って1週間も経っていない女性から、猫のコスプレをして、にゃんにゃんとしろという要求をしぶしぶ飲むことで、その女性の資産のかなりの割合である、相当な金額を借りることができたことをここに記しておく。しかしそれは、私に、深い罪悪感と、責任感をもたらしている。私が失敗することは、即ち、心の美しい彼女の投資の失敗を意味している。そのため、その責任感は、私を強くしている。私の友人である宮台真司が、このようなことを、現代の日本を生きる日本人であれば、必ず読むべき教科書とも言うべき『14歳からの社会学』という名著で、このように表現している。

他人のために動く人間が一番強い。

古代のギリシャや、アテネの英雄たちが強く、現代まで語り継がれる物語となるほどの強さを発揮していたのは、彼らが、損得勘定ではなく、「俺が動かなければ誰がやるんだよ」という責任感とも言うべき感情が理由である。

なお、現代は、「得をするからこの行動をする」「損をするからこの行動をしない」という利他的な人間が増えたため、社会はクソである。

私は、この宮台の言論に、完全に同意している。

損得で生きる人間は、損得の範囲でしか、得られぬのだ。

なお、私は、自らの死という形で、社会を変えようとした、私と同じく天才である三島由紀夫とは違い、死を持って返済をするのではなく、生きて、この天才性が評価されるどこかで働き、なるべく早く返済を終え、返済をし、そしてそこから、また、再チャレンジをすればよいことに気づいた。そのため、生命保険の契約は、取り消しに至った。それゆえ、私は三島由紀夫よりも、天才である。彼の選んだ死という行動は、彼の著作であり、私も好んで呼んでいる「行動学入門」で予言的に暗示されている彼の未来の、まさしく現実世界での文学表現としては評価できるが、現実に社会を良い方向に変えるという点では、評価できない。もし、彼がその意図を持ってそれを行っていたとすれば、私は彼の行動に対して、人生における長期の時間軸という概念で自分がなし得ることのできる社会に対して与えることのできるプラスという当然に持ちうるべき観点の欠如と、そして死ではなく、生きて文筆活動を始めとした天才の天才的な行動により一人の人間の人生という単位で見た時の社会に与えることのできたプラスの総量という観点の欠如、また自己の天才性と、そして同時に付随する行動力の合わさった結果を考えることのできなかった点、そしてまた大衆の愚かさの理解の不足を指摘したい。大衆の認識は、ブラウン管越しの著名な一人の天才の人間の割腹などでは、そうは簡単には変わらぬのだ。歴史学を学べば、そんなことはすぐにわかる。私は、三島由紀夫は、本当は、世間で言われ、また私も同意する天才ではなく、ただの馬鹿であったのではないかもしれぬという疑問を持っている。

その点で、三島由紀夫と交流のあった、石原慎太郎という、芥川賞を受賞した文学者として社会に華々しく登場しながら、その後、政治の世界に転身し、死ぬまで正論を説き続け、最後は東京都知事として、とるべき行動を死ぬまで行い続けた天才を評価したい。何が「行動学入門」であるか。最も行動について誤った選択を取ってその人生を終えた人間が、行動について高尚に論じているのが、馬鹿らしい。私は、三島の「行動学入門」を読み返す度、そのような想いを抱く。ただ、私は、もうしんでしまった彼が、どこかでねこに生まれ変わって、幸せに暮らしていることを祈っている。

私の「しんでねこになる」という名前は、そのような宗教的な性格を帯びた、願望とも言うべき思想から産まれた。私は、死後の世界は信じぬが、死後の世界を信じることで、死前の世界を幸せに生きることができると思っている。現代の日本では、「政治と宗教の話はするな」という馬鹿げた言論がまかり通っているが、まったく間違っていると私は思う。むしろ、政治と宗教の話をしなければならない。すべての物事は最終的には、そのいずれかにたどり着くというのが、「生きる」という宗教を信じて、それに従い行動し、生きている私が、開祖した宗教の、宗旨である。この私を開祖として、今後、社会に広める予定である「生きる」という新興宗教では、自殺という行動に対して、絶対的に否定的である。

天才ではあるが、私ほどの天才ではなかった三島由紀夫、彼のその主張は、正論でしかなかったが、正論をそのまま言っても、通らぬのが、この世である。

愛する人間たちを自死で失ってきた過去の人生経験から、死に近い人間を救うことを、おそらく無意識に自らの責務として課している私は、人の自死は止めるくせに、自らの死については、軽率に考えていた。

その点で、死んで返せばいいんだろうと平気で考えた自分は、ある意味では無責任であったことを、ここに反省する。私は、天才であり、かつ、仁義があり、かつ、社会のことを考える現代史において世界史の教科書に記載されてもおかしくない高貴な人間であるため、しんでねこになるよりも、いきてきみにあうことを選んだ。

だから、私の名刺に記載されている私のメールアドレスは、こうなのだ。

ikitekiminiau@heavens-gate.co.jp

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