人にはそれぞれ四季がある。それをただ、まっとうするだけなのだ。/Each person has his or her own four seasons. /每个人都有自己的四季。我们只需做好自己。2024年6月30日、おさんぽ日記

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にゃーん

(人間語・日本語訳

吉田松陰という人がいる。
幕末に、傾きかけた幕府を倒し、天皇を敬う体制にする方が、国民のためになると主張した人だ。

彼の元には、沢山の弟子が門下生として圧また。

久坂玄瑞
高杉晋作
入江九一
吉田稔麿
伊藤博文
山県有朋

これらはすべて長州にある吉田松陰の「松下村塾」の教え子である。

これだけではない。
世の人々のために、世界に日本を侵略されないために、
その他大勢の若者が学びを請いに松下村塾の門をたたいだ。

しかし、彼はそのような、幕府(現体制)を転覆させる計画を教え込んだ重罪人として、斬首の系に処された。
それも、これほどの偉人を育て上げた大偉人ながら、齢30でこの世を経った。

彼が死ぬ前。『留魂録』というメモにこのよう書き残している。。

私が30歳を目前としてしぬことに平穏な気持ちでいるのは、四季のことを考えたからだ。
たしかに、これまで育てた花が咲かず、身をつけなかったおこは、惜しむべきかもしれない。

人の寿命には定めがないのだ。
だから、10歳で死ぬもには、その10歳なりの死期がある。
そして、100歳で死ぬものは、その100歳なりの死期がある。

10歳を持って、短い、また、100歳をもって長いということは、蝉をクスノキに変化させたり、精霊の宿ったつばきをただの蝉にすることで、それは天が決めた寿命をまっとうするということにはならない。

私は30歳だ。それなりの四季を経た。花をつけ、身をつけているはずだ。それがすぐに枯れてしまうものが、大きく大きく日本を変えるほどのものになるかはわからない。
ただ、私から身を受け取った人が、私の真心を掴み、それを受け継いでやろうという人がいたなら、収穫の度に、それは恥じない年になるだろう。
同士よ、このことをどうかよく考えてほしい。
僕、しんでねこになる(I’ll be a cat if I die.)の意訳です。

【松下村塾門下生】
久坂玄瑞
…松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。 安政の大獄で松陰とともに投獄されたが、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となった(尊王攘夷)

以下、吉田松陰が彼に残した言葉を羅列する。

「久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才である」

「久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。しかも、その志気を才で運用する人物である。僕はかねてから、長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。」

「僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。その後、高杉晋作を同志として得た。晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。晋作よ、世に才のある人は多い。しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない」

伊藤博文
…初代内閣総理大臣

入江九一
…方向性は違ったが、国を想い心は本物だった。松下村塾の生徒の中での四天王ともいうべき、松門四天王に一人に数えられた。彼はあまりにもこの国をラディカルに変えたかったため、吉田松陰が淡雑を企て「安政の大獄」そこは幕府を牛耳る大老、井伊直弼の国益を損なう政策に見かねて行ったものだ。これを計画したことで吉田松陰は後に死罪となる。入江はこの件では死罪とはなたなかったが、松陰の遺志を頑固にも(?)貫き通そうと、大老、井伊直弼の側近である、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。これは、のちの吉田稔麿と同じである。

吉田稔麿
…久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀とされる。松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。吉田松陰が「安政の大獄」の大獄で処刑された後も、 「安政の大獄」でターゲットであった大老・井伊直弼の側近、老中・間部詮勝の暗殺を企てていた。この企ては失敗し、牢に入れれたが彼の最後は、こうだ。まさに天王山といえる御所での討幕派と幕府の戦い、その中で、松下村塾筆頭であり、盟友である久坂減衰が自刃。何とか牢を脱出して、討幕派の味方にならんとするも、堀を越えたところで、警備兵の槍を顔面に受けて死亡した。
なお、このように入り江の行動の中には少しすれたものもあると思わるが、倒幕の志士たちは、明治維新を成し遂げたのち、護国の英霊ーーすならち、この国を護った英雄たる霊として、吉田を祀っている。

伊藤博文
…初代内閣総理大臣

山県有朋…
内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)

高杉晋作
…イギリスをはじめとした外国の侵略をありありと感じ、そしてそれに現実主義として、対応していかねばならないという強い意志を実行力を持っていた藩士であった。その徹底したリアルズムから、現在の藩の「正兵」だけでは足りいと、「民兵」からも増員して、防衛力をぞ増強した。
イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国から砲撃を受け、軍事的侵略を受けたが。彼は外交的に立ち回り、長州の危機を回避した。

身内である国内の問題ーー討幕と、外国からの侵略に両方に上手に対処し、最後に勝利と平和に導いた彼は、日本の偉人と言える。

なお、今は亡き故人である安倍晋三並びにその父の安倍晋太郎の晋の字は「高杉晋作」のからもらい受けたものとと聞いている。
私は安倍晋三については、国内の問題に対処しながら、しかし国外の外交的な問題にも適切に対処するその姿勢が、まさに彼が晋の字を授かった高杉晋作の生まれ変わりのように思えてならない。)

おさんぽ日記
2024年6月30日 12分7秒

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