2024/03/25 06:41

にゃー

(人間・日本語訳

さっきは散歩前のメッセージだったね。
ちゃんと約束通り、散歩に行ったよ。

雨だったけど、傘をさして行った。
毎日いくこと「継続」が大事だからだ。
それに、雨でもたしか日の光は30%くらいは地上に届くから、健康にもプラスではあるはず。

さて、今日はお金の話をする。

僕はなぜこのアカウントを作ったのか。
僕はよく思い付きで行動するが、このアカウントも、そういう「思い付き」のひとつだ。
「思い付き」のうちには捨てるものもある。
でもこの思い付きには、結構いい感じを感じている。

思いついて作ったときの気持ちを考えてみる。

1、遊び
2、人の死を救える
3、人と出会える

1はなんとなくの遊び

2はメニューを押してもらえればわかると思う。

僕は「しんでねこになる」なんて名前をつけているが、君に死んでほしくないと思っている。(ここでいう「君」はまだ僕と会ったことのない「君」も含むよ)

僕は言葉を大切にしているし、僕の唯一の武器が「言葉」だと思っているから、それで人を救えるならと思った(続く)

(続き)

僕はX(Twttter)
https://twitter.com/sindenekoninaru

で色んなことを書いているけど、生を肯定する文章もいくつか書いたつもり。

だから、この公式LINEのメニューのいくつくかは、その文章に飛ぶように設定した。
誰にも話せなくて、暗くて、布団の上で、うずくまってる君が、その文章にたどりつけるように。
そして、一方的に文章を読むだけじゃなくて、アクションを起こせるようにしたのが、下のボタン。
そこを押すと「死にたい」「にゃーん」というメッセージが送られる。

僕は今までに沢山の死にたい気持ちの人たち(そのうちの何人かは本当に死んでしまった)と接してきて、この「死にたい」と送るボタンが、ひとつの死から彼女たちを救うものになると思って配置したつもりだ。

「死にたい」「死にたい」「死にたい」

僕は病んでリストカットをしたことはないけれど、どうしようもない感情のぶつけ先として、このボタンを使って、しのいでくれたらな、なんて、思った。(続く)

(続きの続き) 心理学を深く学んだわけではないし、これが効果的なのかはわからないけど、僕の感覚で、死にたい時に、このボタンを連打することは、それ自体で、死に向かう道からその人を少しは遠ざけると、思っている。 そして、メッセージ。 自分で言うけれど、僕は「良い人」だ。(そして同時に「とても悪い人」だ。どう悪いか?それは話すと君に嫌われるから、言わないでおくよ。) だから、死にたい人たちの個別のメッセージにも、ひとつずつ返そうと思っていた。 でも、ありがたいことに、意外と多くの人たちが個別でメッセージをくれる。 でも、同時に僕の周りで色んなことが起きて、僕は、僕の周りの人たちのために時間を使わなければならなくなってしまった。 「みんなを救うことはできない」 もったいぶってるわけじゃない。 もちろん僕は、ぜんぶのメッセージをしっかり読んで、しっかり返したい。 でも、僕に来るメッセージはみんな真剣で、僕がしっかり受け止めて返すと、一時間も二時間もかかってしまう。 返して、また数時間するとメッセージが来る。 「世界中の人を救うことはできない。」 (続く)

(続きの続きの続き) だから、僕は、自分の周りの人たち(そして僕)を救うためで今はせいいっぱい。 だから、個別のメッセージにほとんど返せていない。 そして、そのことが、心残りだ。罪悪感でもある。 死ぬ人と言うのは、控えめというか、自己評価が低くて「助けて!」と声をあげれない。 単純な「死にたい」というだけのメッセージの奥に、ものすごい苦悩が広がっているかもしれない 僕は、自分のこのアカウントのトークルームに広がる、沢山の苦悩のメッセージと、限りない「死にたい」を目に、「ごめんなさい」と言いながら、画面を閉じて、僕の日常に戻る。 こんなアカウント、作らなきゃよかった、とは思わないけれど、無責任だなとは思う。 ここからが本題。 僕は、とても迷った(本当に迷った。この質問をみんなにする前に何日も何日も考えた。) 僕がこのアカウントをやっているのは、僕自身のためだ。 自分の心と体の健康のための「さんぽ」を継続させるため。 そして、自分の考えを文章にして、自分の何かを昇華させるため。 でも同意に、色んな人から「助けて」が来る。 もちろん「助けたい」 (続く)

(続きの続きの続きの続きの続き) もし、彼らが、僕が返すことで救われるなら、彼らからお金をもらってもいいかな? はっきり言って、お金儲けとしては、筋が悪い。 一人一人、対応してメッセージを返して、いくら。 そんなことより、もっと大きな仕組みを作ったり、する方が、僕にはお金が入る。 今僕は、そういうことをしている。 だからこれは、公平性の問題。 僕のために頑張ってくれている周りの人間や、近くの人間と同じくらい、あるいはそれに近いくらいに対応することを、知らない無料の人にするには、僕の中で「公平性」が崩れてしまう。 でも、「お金を払ってでもいいから話を聞いてほしい」という人から僕がお金をもらって、その範囲で僕が話を聞いて、そのお金を何かに使えば、それは公平だと思う。 だって僕はボランティアじゃないんだから。 いや、ボランティアでありたいかえど、ボランティアであるには、まだまだ僕は貧乏過ぎる。本当なら、もっともっと大金持ちになって、こういう人たちに対応する専門のスタッフを揃えて、みんなを死から救いたい。 でも、今の僕にはそれができない。 (続く)

(続きの続きの続きの続きの続きの続き)

何度も言うけれど、僕はこれ自体でお金儲けができないし、何なら、これをせずに、もっと大きな仕組みを作る部分に自分の時間を使った方がいいから、信者ビジネスとか、金儲けに走ったとか、言われるのは、嫌だな。

そういう風に見られるなら、僕はこれをやめて、今まで通り、ただただ散歩日記を配信するのを続けようと思う。
いや、それは違うな、別に誰にどう見られてもいい。
これはひとつの思いつきで、上手く行かなそうなら、今まで通り一方的におさんぽ日記と自分の考えを、ただただ配信するつもり。

でも、「本当に僕の返信や対応を必要とする人」がいるなら「お金を払う」ということで、その人に時間を割いて、その人は助けてあげたいと思ってる。(残念ながら僕の時間は有限)

僕はとにかく、毎日みんなから「死にたい」や、それぞれの苦しみのようなメッセージが来て、それを見過ごすのが、見捨てているようでしんどくてたまらない。

その解決策にひとつとして、「課金」が思い浮かんだ。
みんなの意見がほしい。


2024年3月25日
おさんぽ日記 おさんぽ時間15分24秒くらい

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